ドラマ「TRICK」と坂口安吾

全然ジャニーズと関係ないことだけどなんとなく。すごく唐突にドラマ「TRICK」の話です。眠れない夜の暇つぶしにでも(長文です)。
こないだ友人の家でぐだぐだしてる時、もう朝方に近い時間に「TRICK」の再放送をやってたのね。で麻雀やりながらだらだら見てたんだけど、ちょうど今やってるテスト勉強とリンクして把握したようなしてないようなそんな気分になったのでだらだらと書くぜ。
私の中の「TRICK」という作品は「好きだけど苦手」な作品に位置付けられています。もちろん随所にしつこいほどに挟み込まれる小ネタや田舎、宗教、超能力というモチーフは大好きなんだけどそれ以上になんとも言えない「後味の悪さ」がどうにも苦手でねえ。んでその「後味の悪さ」がなんとなくわかったような気がしたのです。
私が見たのはシリーズ最初の4話5話、「まるごと消えた村」の回。村人全員が消えた村、村の人々を消した超能力者。しかし実際は誰一人村人は消えておらず、村で何百年も行われていた生贄の儀式を見てしまった外部の人間を殺したのをカモフラージュするために、村人たちが超能力者を担ぎあげて作り出したトリックだったわけです。自らの超能力を妄信する超能力者は最後、自らを消そうとして哀れにも死んでしまう。そう、「TRICK」は哀しいのです。何が哀しいって、いわゆる「超能力者」の描き方が残酷なまでに哀しい。ドラマの主旨は山田上田コンビvs自称「超能力者」なんだけど、それを動かしてるのがまるで超能力など持たない人というオチは何回か見た気がします(私全部見たわけじゃないからわからんけど)。この回はまさに彼が狂ってしまった傀儡で、それを動かしてるのは生贄の儀式なんていう前時代的な儀式を信じ続け実行し続けているこれまた少しばかり狂気の村人たちで、これってすごくシニカルだと思うのです。このドラマの後味が悪いのも素晴らしいのも全ては「結局は超能力なんかよりも人間の方がよっぽど怖い」という哲学に基づいてるからなんだよね。しかもこのドラマの舞台は往々にして不気味な「田舎」で、より人間の繋がりが濃いからこその恐怖、という。全てがやるせないんですな。まるで意味もない前時代的な儀式のために全てを賭けて尽力する村人たちも、自らの才能を妄信し利用され結局目が覚めないままに死んでしまう「超能力者」も。彼らが罰せられるところが描かれずに、「超能力者」の愚かな死をもって物語が突然終わるところもやるせない。結局彼らには現代的・近代的であるはずの上田(物理学者)、全てはトリックだと豪語する奈緒子(マジシャン)も何もできないわけです。トリックは明かされたけど、だからっつって彼らが矯正するわけでもない。そもそも彼らは彼らの現実に生きていたわけで、儀式を目撃してしまった者を消すことが罪でも何でもなく「当たり前」である文化に生きているから「矯正」なんてできるはずもない。彼らの村では奈緒子や上田こそが異分子であり「常識外れ」なわけです。物理学や合理的なトリック、常識や法律が通用しない彼らに見てる方は決して共感できない。どうすることもできない。ここがやるせないのです。
でこの感覚が何に繋がるかっつーとちょうど明日のテストのために読んでいた坂口安吾です。

 一口に農村文化というけれども、そもそも農村に文化があるか。盆踊りだのお祭礼風俗だの、耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるかも知れぬが、文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。あるものは排他精神と、他へ対する不信、疑ぐり深い魂だけで、損得の執拗な計算が発達しているだけである。農村は淳朴(じゅんぼく)だという奇妙な言葉が無反省に使用せられてきたものだが、元来農村はその成立の始めから淳朴などという性格はなかった。
(略)
 日本の農村は今日に於ても尚奈良朝の農村である。今日諸方の農村に於ける相似た民事裁判の例、境界のウネを五寸三寸ずつ動かして隣人を裏切り、証文なしで田を借りて返さず親友を裏切る。彼等は親友隣人を執拗に裏切りつづけているではないか。損得という利害の打算が生活の根柢で、より高い精神への渇望、自我の内省と他の発見は農村の精神に見出すことができない。他の発見のないところに真実の文化が有りうべき筈はない。自我の省察のないところに文化の有りうべき筈はない。
(『続堕落論』1946年)

そもそも田舎ほど素朴から遠いところもない、そこには人間の狡猾さが渦巻いているという主張がひとつ。もうひとつはこんなのです。

 いつかコクトオが、日本へ来たとき、日本人がどうして和服を着ないのだろうと言って、日本が母国の伝統を忘れ、欧米化に汲々(きゅうきゅう)たる有様を嘆いたのであった。成程、フランスという国は不思議な国である。戦争が始ると、先ずまっさきに避難したのはルーヴル博物館の陳列品と金塊で、巴里(パリ)の保存のために祖国の運命を換えてしまった。彼等は伝統の遺産を受継いできたが、祖国の伝統を生むべきものが、又、彼等自身に外ならぬことを全然知らないようである。
 伝統とは何か? 国民性とは何か? 日本人には必然の性格があって、どうしても和服を発明し、それを着なければならないような決定的な素因があるのだろうか。
(略)
 キモノとは何ぞや? 洋服との交流が千年ばかり遅かっただけだ。そうして、限られた手法以外に、新らたな発明を暗示する別の手法が与えられなかっただけである。日本人の貧弱な体躯が特にキモノを生みだしたのではない。日本人にはキモノのみが美しいわけでもない。外国の恰幅(かっぷく)のよい男達の和服姿が、我々よりも立派に見えるに極っている。
(略)
多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新らしい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。なぜなら、我々自体の必要と、必要に応じた欲求を失わないからである。
(『日本文化私観』1942年)

これは戦争中「日本最高だよ!」的に右傾する流れに対する皮肉でもある(らしい)んですが、まぁそれは置いといて。確かにそれが伝統だからと盲目的に重んじる風潮はおかしい。確かに私たちは「奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困る」のです。「TRICK」というドラマにおいて、前者の引用にはかなり近い描写があるように思います。ほのぼのとしたジブリ的な田舎は否定され、人間たちの根源的な欲や信心や狡猾の土壌としての田舎がピックアップされる。ただ、後者の引用に対しては、どうなのかな。確かにどんな人間でも便利になることが望ましいし、不毛な儀式ならそれは否定するべきなんです。けどこれって、私たちがその「便利さ」に気付いてる場合に限ったことだよね。愚直なまでに生贄の儀式を続け、それによって災いを退けていると信じ込んでいた人たちに「そんな儀式が災いを防ぐわけないじゃん」と証明してみせてどうなるんだろう。今までその世界にしか生きてこなかった人にとってはその儀式が全てかもしれないしそれを解体することでアイデンティティ・クライシスを起こしてどう生きていいかわからなくなるかもしれない。今までそれを全力で信じていた理念がまるで誤謬だったと解き明かして何かが生まれるのかな。「ああそうなんですか」とその村人たちは明日から急に快適で近代化した生活を送ることができるのでしょうか。たぶん出来ないよなー。それこそ昔の地動説みたいな。事実、地球は回ってる。けど、ずっと「空が動いてる」って思っていた人たちにどれだけその事実を訴えたところで狂言でしかないのだ。コペルニクス的転回。無理に客観的事実を突き付けることは時にはすごく残酷なことです。もしかしたら私たちにもあるかもしれない、そういう「儀式」みたいな、「伝統」みたいな概念が。誰かから見たら愚かしく前時代的なことかもしれないけど、私たちにとってそれは真実以外の何物でもない哲学が。おそらく近代化された私たちは上田や奈緒子のように真実を解明したくなるけど、真実は必ずしも善や幸福ではない。もしかしたらこれが私たちのコペルニクス的転回なのかもしれません。事実この結論は私たちにとって決して心地よいものではないよね。「TRICK」の後味の悪さっていうのはおそらくこういうことなのかなぁと思いました。けどこういう含意がないとつまんない。トリックの解明だけでは解決できない人間のカルマが描かれてるからこそ人気が出たんだろうなぁとか。




……着地点が……見つからない……!!!!!!!!!!まぁこういう風にふと目にしたもの同士が有機的に繋がると楽しいよねという話でした。ちゃんちゃん。明日のテストがんばろ〜。