僕らのエンドレス・デイズ(或いは永遠に続く夢を幸せと呼べるかどうか)

いきなりですがコレを見ました。

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー [DVD]

拍手で教えてくれた方ありがとうございます!!!!!!!いっやーもうこれ!!!ヤバイね!!!!大興奮です!!!!常々「凄い」という噂は聞いておりましたが、やっと見る気になりまして。けどこれを見るに際して一番良いタイミングだったと思う。大好きです。ハルヒ見たらこれは見るべきだし、これを見たならハルヒを見るべきだったんだ。おおおおお。そんなわけで興奮冷めやらぬ(つい10分前に見終わった!)ラブマの長文が火を噴くタイムです。推敲ナシ、思考がまとまらないうちにビャーッと書いてますので乱文ですすんません。アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズ及びこの映画のネタバレを多分に含みますー。【2/22】リピる前のちょっとした追記もアリ。
拍手でうる星やつら漫画及びこれをおすすめして頂いたコメントに、私が先のハルヒ感想エントリで「非日常が日常に回収されるところが良い」と言ったのでオススメ、ってありまして。的確すぎる!土下座して感謝申し上げたい。ハルヒの「涼宮ハルヒの憂鬱」一連の回は明らかにこれのトリビュートっていうかアンサーストーリーっていうか、ある意味でのアンチテーゼっていうか。ここで投げ掛けられた諸問題に答えようとしたのが憂鬱かなって思います。ラムちゃんがあたる達と過ごす永遠の日常を望んで、それは実現される。気付かないうちに日常が非日常に取り込まれる、この構造に気付いた人は排除され、のんべんだらりとした何不自由ない日々――「衣食住の保障されたサバイバル」は続く。けれどラムちゃんが望んだ中心であるあたるはそこから脱しようとするんだよね。この映画の凄いところというかズルいなと思うところはあたるが「何故」そこから脱しようとしたかが明確には描かれていないところだと思います。私が憂鬱の特に6をこれのアンサーストーリーだ!と思ったかと言うと、ほとんど同じ状況に置かれたキョンは明確な戻りたい意思を「キョンと居る世界」を望んだハルヒ本人、に告げ、そして抜け出すからなんだよね。でまたこの映画のズルいところは、あたるが戻ってきたと感じた実世界が本当に実世界なのかの明確な答えが無いままに終わってしまうからでw。せめて最後に学園祭当日の描写があれば救われるものの、一見したところ「あたる(たち)が実世界に戻ってきました!」と明らかに裏付ける描写が全然ないw。恐ろしいですねー、もしかしたらあたる達は気付かないまま、またラムちゃんが夢見た世界にずっと生き続けているのかもしれないのです。この映画のテーマである(と思われる)「私達が生きているこの世界は誰かの夢の産物なのではないか?」という余りに哲学的、余りに思考ゲーム的な問いが提示されるだけにとどまっている。そしてこの映画の後味がなんでこんなに「世にも奇妙な物語」的なのかと言えば、このラストシーンは「全てが誰かの夢でなんか不都合ある?」という開き直りの結論に達する道が残されているからですねwそう、問題は無いんだよこの世界の全てが夢でも。必要最低限の何気ない日常さえ送れていれば、この世界が夢でも何でも便宜上は何も問題は無い。では何故あたるはあんなに現実世界に戻ることに必死になったんでしょうか。何故私達は「全てが誰かの夢である」という結論に対し、その便宜的な是非はともかくとしてこんなに拒否感を覚えるんだろう。ああ、そういえばハルヒキョンしか存在しない「閉鎖空間」を抜けようとしたキョンは「長門さんやみくるや古泉や、みんなが居る日常」への回帰を望んでいた。これじゃあラムちゃんと同じじゃないか!!!!!ああああ!!!(袋小路)。ラムちゃんは平和な日常を望み、ハルヒは非日常を望み、キーとなるあたるやキョンは「実世界」を望む。この場合は日常≠実世界、なんだよね。おそらく男子たちは波乱万丈で幸せなだけじゃない実世界でも良かったんだ。結局はラムちゃんが望んだ「桃源郷のような日常」、もハルヒの望んだ「非日常」と同じことなのかもしれないなぁ。ああああああああ。男子の方がアイデンティティ(「ここに居る私」という意味での)が強いことの暗示なのかしら。確かな存在を望む(自己が確かな存在で在りたいと望む)男子と自己の存在云々よりも自ら望むシチュエーションを望む女子、の対比なのかな。うーん……!!!!
けどやっぱりハルヒキョンは明確に「帰って」来て(しかも夢オチとは言い切れないし)、あたるたちは帰ってきたかどうか明確にはわからない、ってかなりポイントだと思うんだよなーあーあー。この映画、たぶんもっともっと色んなメタファーに富んだモチーフが含まれてるんだろうけど一度見ただけでは全部は拾い切れませんw。ただこの映画が「この世界が夢であることをどうやって反駁するか(反駁できない、という反語含め)」という存在論認識論に手を出していることはよくわかるw。ハルヒのいいところに、そういう余りに哲学的なモチーフに踏み込んでいない点が挙げられると私は思っております。「セカイ論」*1止まりなんですわなあの話は。日常に対する非日常というその対比がハルヒの恋愛感情(らしきもの)という非常に判りやすい日常レベルの感情で結び付けられているに過ぎない。んだけど、この映画は…!日常と哲学(存在、認識、時間概念)を結びつけようというテーマなんだろうけど、余りにも壮大すぎて手が付けられないwどう語っていいかもわからない。こんなダイアリ上で語ることでもないw。本来なら卒論の一つや二つ書けてしまうモチーフを100分弱の映画でしかもそこそこ深いところまで掘り下げてしまったっていうのは押井守何者のひとことですよ!アニメ無知なんで今更何をほざいておるんだと思われるでしょうが今痛感している、押井守はスゲエ(笑)。もう笑っちゃうくらいにすげえ。「自我」という概念が芽生えた500年くらい前からえらい哲学者たちが真面目に議論してきたテーマをこんなにポップに扱っているとかほんとハンパじゃない。やっぱり作画?っていうの?なんだろ、映画としての美しさとかアニメとしての手法の斬新さとか、内容じゃなくて芸術的にも素晴らしかったです。ああアニメってこんなことできるんだって今更ながらに気付かされたり。色使いや言葉のセンスもいい塩梅の軽さですっごい心地良かった。好きだなーあのセンス。ちょっともうこれDVD欲しいwレンタルで借りたんですが、どうやら監督スタッフの副音声も入っているらしいので、返す前にもう一周したいと思います。それでまた何か新しい発見があったらアツく語りに来るかもしれない(そしてこう明言した場合はだいたい書かない)。今これ誰の考察も読まずに自分の頭の中で考えてることを時系列で全部書いてるだけなんでしっちゃかめっちゃかでしょうが、とりあえず上げときます。これから色んな考察読んで「ああそういう深読みもアリか」って関心するターンに入ろうかと思うよ。やーとにかくウン凄い。ホントおすすめして頂いてありがとうございました!
【ちょっとした追記】

  • 憂鬱(閉鎖空間)っていうよりエンドレスエイトですねコレ。早く二期も見なきゃ…
  • しかし憂鬱のラスト、キョンが閉鎖空間を解くキスがビューティフルドリーマーを意識してないとは思えない。だってあたるとラムちゃんのキスシーンは阻まれて、結局あたるたちは夢から脱せていないじゃないか。あそこであたるがラムちゃんにキスをしていたらきっとラムちゃんの夢は覚めていると確信する私。結局はうる星やつらハルヒもラブコメであるからしてだな。
  • 最後、ラムちゃんの「責任とってね」の真意は如何に?
  • またまた拍手で、あたるがラムちゃんの夢の世界を拒否したのは「誰かの夢はいやだ(それが自分が望んだものと一緒でも)、自分で世界をつかみたい」からではなかったか、と。おおおお、そうですね。きっと私たちがこの世界が誰かの夢であることを否定したくなるわけは単純に「イヤだから」だな。自主性を認められない世界は嫌だというか…なんだろな、やっぱこの世界は「自分が能動的に選んだ世界」である、ということにしておかないと自分の存在意義がブレますよね。チェスのコマのような人生はやっぱり嫌です。これは中二って切り捨てられる問題ではなく、自我を有する人間であれば生理的に生ずる感情だーよーなー。ああ、この意味でやっぱりあたるとキョンはぜんっぜん違うなー。系譜は同じなんだけど何かが決定的に違う。あたるのかっこよさはきっとその余りに強い自我とか強欲で、キョンのかっこよさはたぶん自我を人に寄与できる(どこまでもハルヒたちの相手をしてあげられる)ところなのかなぁ…とか…。ちょっと表にしてまとめたい、ハルヒとうる星の対比w
  • 何故夢邪気は夢を壊す獏をラムちゃんのところに遣わしたのだろうか。夢邪気はともかく、あの獏の描写が色々と唐突ながら思わせぶりで気になるー。
  • 各キャラの台詞はいちいち含みがありそうで気になる。特にサクラ先生!超かっこいい!温泉マークとの対話はシビれまくりました。温泉マークの「本当に今日と違う明日が来るというのですか!?」は秀逸。

*1:という言葉があるのかどうかはわかりませんが